重荷をゆだねる
- Keiko Yamada
- 6 日前
- 読了時間: 9分
更新日:5 日前

Sustained
Artwork inspired by Psalm 55:22
Keiko Yamada
Acrylic Painting on Canvas
14 x 11 inch
今日の作品は、たくさんの葉っぱのような形をしたカケラが、何かに包み込まれつつ溶けている様子を描いた作品です。
もし、そのカケラ一つ一つが、私たちが日々背負っている重荷だとしたら、どのようなもの、あるいはどのような存在が、その重荷を包み込むように受け止め、私たちを力づけることができるのでしょうか。

私たちの足取りを重くする鎖のような重荷は、人それぞれ、その重さも形も異なるのではないでしょうか。人間関係の争い、職場での問題、思うように進まない大学受験の勉強、先が見えない病気...数え始めたらきりがありません。
そして、その重荷を少しでも軽くしたいと思う時、特定の宗教を信じていなかったとしても、「祈った」経験がある人は多いのではないでしょうか。
人間関係で悩んでいる時に、牧師や神父に祈ってもらった。
大学受験に行き詰まった時に、神社に行ってお賽銭を入れ、精一杯祈願した。
身の回りで災害があった時に、道端に祀られている仏像に手を合わせ、安全を祈った
私たちは、普段は意識していなくても、これまで様々な形で「祈り」を捧げてきたのではないでしょうか。
「祈る」という行為は、動物には見られず、人間だけが持っている不思議な特徴の一つだと思ったことはありませんか。
私は時々、人間の体やその仕組みの精巧さに感動することがあります。何一つ無駄がないように思える細胞一つ一つから、私たちが毎日何気無くしている動作に至るまで、そこには驚くほど精巧な仕組みが備わっています。
人間は偶然に生まれ、進化してきた存在だと考える人もいる一方で、こうした人間の精密さに触れるたび、私はやはり、人間を創造された神がいるのではないかと思わずにはいられないのです。
そして、もしそのような神が存在するのだとしたら、私たち人間をはるかに超えた存在でありながら、ご自分と対話できるように、人間に「祈る」ことができるようにデザインされたのでは、と思うのです。
そしてその神は、ご自分のことを人間にもっと具体的に明かすために、実に興味深い、そして人間の力だけでは成し得ないような方法で、聖書を私たちに与えてくださっているのです。
何千年もの時をかけて書き継がれ、一つの書物としてまとめられた聖書は、66巻全てが、全く異なる文化や時代を生きた人々によって書かれたにもかかわらず、一貫して同じ神について語っているという、不思議な書物です。
聖書の中にも書かれている「重荷をゆだねる祈り」
その聖書の中にも、今抱えている重荷から解放されることを願った、ダビデという人物の祈りが書き留められています。この祈りこそ、今回の絵の着想となった聖書箇所です。
あなたの重荷を主(神様)にゆだねよ。
主(神様)があなたを支えてくださる。
主(神様)は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。
詩篇55篇22節
この言葉からは、この神は私の祈りを聞いてくださるだけではなく、自分の重荷をゆだね、任せることのできるお方でもある、という確信が聞こえてくるようです。その重荷自体は取り除かれなかったとしても、それを共に担い、支え、結果として私たちを強め、揺るがされないようにしてくださるお方なのだ、と。

正しい者?
しかし、私はこの「正しい者」という言葉を使っている祈りを読んで、「これは、自分こそが常に正しい者だと主張している祈りなのか?ダビデさん、これは傲慢すぎるのでは?」と正直思いました。
この詩篇55篇は、ダビデが友人に裏切られた苦しみの中で、神に訴えている祈りです。詩篇全体を読んでみると、「えっ、こんなことまで祈ってもいいの?」と驚かされるような、呪いのような言葉まで書かれています。
誰かとの関係で不和が起こり、感情的になるほど「私の考えが正しい」「私の思いの方が正しい」と思いが強くなり、相手を論破したくなる気持ちはわかります。でも、これはさすがに言い過ぎでは、と思う時もありました。
しかし、ダビデのように、自分自身が親しい友人に裏切られるような経験をすると、今度は思わず、この詩篇の祈りに同感してしまう自分もいました。
聖書全体の文脈を考えながら読んでいくと、詩篇55篇は、正直な葛藤や思いを神にそのまま述べている祈りであって、私たちが敵を呪うことを正当化するものではないことがわかります。
ダビデも、自分が完全に正しい人間だったわけではないことを本人が誰よりも分かっていました。しかし、明らかに自分を裏切り、滑らかな言葉で人を騙し続け、不法と害悪が街の中に満ちているような状況の中で、彼は言葉では言い表せないような葛藤という重荷を抱えていたことがわかります。それと同時に、人の語る偽りに惑わされることなく、すべての状況を知り、自分自身のことをも知り尽くしておられる神様の存在も確信していました。
だからこそ、自分の怒りや憎しみを抱えたまま、それを神の前に持っていき、最終的に自分ではなく神に委ねたのです。
祈りとは「神は私ではなく、あなたです。だからこそ、あなたに委ねます。」と認めることから始まる対話なのかもしれません。自分にできることをしながらも、自分がコントロールできないことは神に委ね、「すべてを自分で正さなければならない」という思いから解放され、最も揺らぐことのない神のもとへと、自分を戻していく道のりなのかもしれません。
祈りが聞かれた感動
私がクリスチャンになったのは大学2年生の時で、その頃は祈りについてもあまり理解ができていませんでした。
ある時、何万人というクリスチャンの学生が集まる大規模な集会に参加しました。ほとんどのプログラムが野外で予定されていたのですが、ちょうど私たちが建物の中にいた時、なんと大雨が降り始めたではないですか。
このまま振り続ければ、当日予定されていた集会は中止になるかもしれません。そんな中、必死で「神様、この集会のために雨が止むようにしてください」と祈る人たちの姿を見て、私は正直びっくりしました。
「祈りで雨が止まるはずがないじゃないか」と。
でも、そんな私の疑いとは裏腹に、実際に雨は止み、集会の会場の上には晴れ間が広がり、集会は予定通り室外で行われたことを覚えています。
「え?こんな祈りまで聞いてくれる神様なの?」
そう思った私は、あらゆることを祈ってみるようになりました。
その集会の最中、私はピアノが弾きたくてしょうがありませんでした。そこで、
「神様、ピアノが弾きたいです。できれば白いグランドピアノを....」
なんて、今考えればかなり無茶苦茶な祈りを、定番の「イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」といった感じでしたのです。
すると数日後、たまたま会場に近い教会に行った時のことです。なんと、礼拝堂の中に白いグランドピアノがあって、ひっくり返りそうになりました。しかも、その教会の近場に四葉クローバーまで見つけたので、「今日はツイてる!」という気持ちでいっぱいでした。
「これはすごい神様に出会ったぞ。じゃああれもこれも祈る!」
そんなふうに、調子に乗ったのを覚えています。
ちょうどその頃、大学ではピアノを専攻していて、ピアノの先生を変更したい思い、当時としてはかなり難しいリクエストを出しました。
もちろん祈りました。
「変更できますように」と。
しかし、新しいスケジュールを受け取った時、そこには前の先生の名前が書かれていました。
「祈りは答えられなかったんだ・・」
そう落ち込んでいた時、先輩がこんなことを言いました。
「聖書の神様は、ジニーじゃないんだよ、神様なんだよ。」
確かにそうです。
もし、私が自分の思いのままに動かすことができる神であれば、私はすでに自分を神としているだけです。そして、その存在を「神」と呼んでいたとしても、それはもはや、私よりも大きな存在でも、常に正しいお方でもないのです。
その後、私は少しずつ、祈りとは単に「自分にとって良いと思うものをください」とお願いするためだけのものではないのだと学んでいきました。
祈りとは、私のことを誰よりもよく知っている神と、あらゆることについて対話をするためにあるのかもしれません。そして、その対話の中で得ることのできる喜びや安心が、いかに大きなものかを、その後ますます経験することになりました。
そのたびに思い起こすのです。
私が何をしたかではなく、キリストが何をしてくださったかによって、私はありのままの自分で、神様の御前に祈ることができるということを。
私の自己中心的な思いや、これまで犯してきた過ちがもたらす重荷とその結果を、キリストは十字架の上で背負ってくださったのです。そして、イエス・キリストが罪と死に打ち勝ってくださったという事実の尊さを、少しずつ深く知るようになりました。
だからこそ、イエス・キリストへの感謝で心があふれるのです。
まだ、ゆだねることができていない重荷
もし、そのカケラ一つ一つが私たちの日々の重荷だとしたら、イエス・キリストこそ、私たち一人ひとりの重荷を包み込むように理解し、私たちを力づけることができるお方です。
左下には、黒い葉っぱのようなものがあるのが見えると思います。それは、まだ神に委ねることのできていない「重荷」を表しています。

祈りによって、神に委ねていない重荷、あるいは、何度委ねてもまた自分で抱え込んでしまっている重荷はないでしょうか。
それゆえに、ますます重くなっている重荷はないでしょうか。
古い讃美歌に、「いつしみ深き」(讃美歌312番)、英語ではWhat a friend we have in Jesus という曲があります。その歌詞は、まさに祈りを通して重荷を神にゆだねることのできる恵みを歌っています。
いつくしみ深き友なるイェスは
つみとがうれいを取り去りたもう
心の嘆きを包まず述べて
などかは下ろさぬ負える重荷を
いつくしみ深き友なるイェスは
我らの弱きを知りてあわれむ
悩み悲しみに沈めるときも
祈りに応えて慰めたまわん
いつくしみ深き友なるイェスは
変わらぬ愛もて導きたもう
世の友我らを捨て去るときも
祈りに応えていたわりたまわん
今回は、その曲を編曲し、録音してみました。このアレンジに耳を傾けつつ、皆さんが今抱えている重荷を、祈りの中で神に委ねてみませんか。
このアレンジは、中国語の賛美歌「主你是我最知心的朋友」と組み合わせたものです。日本語に訳すとしたら、「主よ、あなたは私の心を誰よりもよく知ってくださっている友」というような意味の歌です。この賛美歌でも、イエス・キリストが私たちの重荷を理解し、共に担ってくださる友であることが歌われています。
どの文化にあっても、どのような状況にあっても、イエス・キリストが理解できない重荷はありません。
その中で与えられる力と慰めに支えられながら、今日も私たち一人ひとりが前へ進んでいくことができますように。
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読んでくださってありがとうございます。God bless you!



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