結果が見えないときに何を信頼し、なぜ種を蒔き続けるのか


喜びの讃歌
詩篇126篇5節から着想を得た作品
Keiko Iris Yamada
アクリル画
15 x 18 inch
私が学生の頃にお世話になっていた家主のヘレンさんは、いわゆる『Green hands」グリーンはんず」を持っている人で、彼女が庭に放り投げたトマトは、なぜか数ヶ月後立派な苗が育ち、トマトを何個も育っているような人でした。その反面、私は一生懸命バジルを育てようとしても、結構すぐに枯れてしまうタイプです。
私たちのほとんどは、このような花がみたい、このような実を味わいたいと期待しつつ種を蒔くかと思います。しかし、必ずしも自分が期待した通りのものが成長するとは限りません。蒔いた人が最善を尽くしても、虫に食べられてしまったり天候が悪かったりで枯れてしまったとか、私たちのコントロールが効かない要素がたくさんあります。だからと言って、種を蒔くことさえも放置することで、何も育たないのは明らかです。
今回の絵は、私自身がそういったことを考えさせられた時期に、この聖書のことばが特に心に響いた結果として生まれた作品です。
涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る
詩篇126篇5節
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詩篇126篇
詩篇126篇は、エルサレムへ上って神様を礼拝する人々が歌った「都上りの歌」です。前半の1〜3節では、彼らは神様が過去に彼らにしてくださった大いなることを思い起こし、喜びにあふれています。後半の4節〜6節では、この世はまだ、喜びどころか涙を流させるような出来事がある中で、過去に大いなることを行ってくださった同じ神様に祈ります。「過去と同じように、再び大いなることを成し遂げてください」、と。私たちそれぞれの涙を理解してくださるだけではなく、その涙を喜びに変えることのできるお方に祈るのです。
行き詰まりが種になる時
私たちも、詩篇126篇の1〜3節と4〜6節の間にいるように感じる時があるのではないでしょうか。
過去に、確かに神様はすごいことを成し遂げてくださった!そのことを鮮明に覚えている一方で、今ここで神様はどこにおられるのだろうと思わされるような現実に直面する時。
聖書の神を信じていなくても、過去には良いことがあった。感謝していることもある。それなのに、今は困難を感じている時。
過去の喜びがあるからといって、現在の苦しみが消えるわけではありません。まさにそのような状況にいる方もおられるかもしれません。
この作品、《喜びの讃歌》を描いた時、私自身も、「神様が、私の蒔いた種から芽を出させてくださった!待ち望んでいたものが与えられた!」と過去を振り返る一方で、アメリカという再出発の土地で新たな種を蒔きながら、目の前の課題に直面していました。
祈っていたアトリエが与えられた!
アメリカへ行くためのビザも与えられた!
神様、ありがとう!
そう感謝する一方で、アメリカでの生活は思い描いていたようには進まず、少し行き詰まりを感じていました。
そんな時、私たちは苦しさのあまり、この絵に描かれた水の流れのように、今の状況を一瞬にして変えてくれる大きな波を求めることがあるかもしれません。自分の力を超えた、大きく力強い存在に、そのような変化を期待するのです。
ネゲブの川

この絵で描かれている川のようなものは、「ネゲブの川」を表しています。聞き慣れない名前かもしれませんが、ネゲブは現在のイスラエル南部にある地域で、この絵の着想のもとになった5節の一つ前の節に記されています。
主よ、ネゲブの流れのように私たちを元どおりにしてください。
詩篇126篇4節(新改訳2017年版)
ネゲブの川といっても、そこには一年の大半、干上がっていて水がありません。しかし、まれに雨が降ると、水が一気に流れ込み、乾き切った大地に水が満ちていきます。
つまり、この祈りには、「渇き切った私たちの状況に、ネゲブの川のように水を降り注いでください。今の厳しい状況から、再び回復させてください」という願いが込められているのです。
そして、その祈りに続く5節と6せつには、神様への信頼が力強く表れています。まるで、「だからこそ、神様、私はあなたと共に種を蒔き続けます」という祈りというよりも、宣言に近いものが綴られているように感じます。
涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る
種入れを抱え 泣きながら出て行く者は 束を抱え 喜び叫びながら帰ってくる。
詩篇126篇5、6節
「喜びながら刈り取らせてください!!」ではなく、「喜び叫びながら刈り取る!」と、大胆に断言しています。
なぜ、この詩を書いた人は、そのような大胆な断言ができたのでしょうか。
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種を蒔き続ける秘訣
それは、神様がどのようなお方なのかを確信し、そのお方に信頼していたからではないでしょうか。
結果が見えない時にも種を蒔き続けるために、何度も神に祈る。その祈りの中で、神様がいかに真実なお方かということを知っていく。その過程で自分自身が変えられ、時には、蒔いた種に対して自分が期待することさえも変えられることがあります。そして、時が満ちる時には、この方が必ず喜びながら刈り取らせてくださるという期待が、少しずつ育まれていくのです。
聖書には、「神様は真実なお方」であることが、至るところに記されています。そして今日も、多くのクリスチャンがその真実さを体験し、証しし続けています。
「神様は真実なお方」。それは、神様が約束を忘れることなく成し遂げてくださるお方であり、私たちがすぐには結果を見られない時にも、変わることなく、忍耐をもって働き続けてくださるお方だということです。そして、実りを喜ばれる方でもあることです。
神様の真実さを知るにつれて、この方は信頼に値するという確信が深まっていきます。そして、私たち自身も詩篇126篇5節のような断言ができるようになり、その確信が日々を歩む力となるのです。
神様をを個人的に知っていく中で、今度は自分自身の不真実さを思い知らされることもあります。それもまた、自然な過程なのかもしれません。
偽ることのない神様と、偽ってしまう自分。
愛があふれる神様と、愛が欠けてしまう自分。
しかし、そのような私たちのために、キリストは十字架でご自身の命を持って、その代価を払ってくださいました。私たちが種を蒔き続ける中で刈り取ることのできるものの一つは、このキリストの愛を、以前にも増して深く知ることではないでしょうか。
そして、その愛を知るほどに、私たちはますます高らかに、この神を賛美するようになるのです。
キリストこそが、神様が私たちにすでに与えてくださった「ネゲブの川の水」だからです。

《喜びの讃歌》
教会に行ったことがない方も、教会といえば「讃美歌」が歌われているイメージが浮かぶのではないでしょうか。讃美歌にも、さまざまなスタイルがあります。ゴスペルのように元気いっぱいに歌うこともあれば、オルガンの迫力ある音色とともに歌うこともあります。教会によってスタイルは異なりますが、共通しているのは、「神様って、こういうお方だよね。すごいよね!」ということを歌っている点です。
悲しみの中にいる時、困難な状況に直面している時、そして、種を撒き続けているのに刈り取ることができない葛藤の時。それでも教会では、声を合わせて「賛美しましょう!」と歌います。
それは、苦しい現実から逃げるためでしょうか?
そうではありません。
その苦しい現実の中にあっても、神様がどのようなお方なのかを忘れないためです。神様がどのようなお方なのかを思い起こすことが希望となり、その日を歩む力になるからです。
《喜びの讃歌》では、収穫の秋を思い巡らさせる桔梗の葉を、鮮やかなオレンジ色や赤色を使って描きました。
この絵を描くときに、実はアメリカから日本の実家に一時的に戻ってきていました。実は、手元にあるアクリル絵の具の色がとても限られていたのです。それは、行き詰まりを感じていた当時の自分の状況を映し出しているかのようでした。
それでも、「Great is Thy Faithfulness (父の神の真実は)」などの讃歌を聴きながら、神様は真実なお方だということを思い起こし、絵を描き続けました。すると、使える色が限られていたからこそ、想像力が刺激された部分がありました。そうして、この作品が生まれたとも言えます。
確かに私たちが今持っている「色」も、限られているかもしれません。思い描いているような絵を描けない状況にあるかもしれません。それでも、そのような時にこそ、神様の真実さに目を向けることで生まれるものがあります。そこで蒔いた種から、思いもよらない実が結ばれ、喜びが生まれる時もあるのです。そのことを、ぜひ思い描いていただけたらと思います。
今日お届けする曲は「Great is Thy Faithfulness (父の神の真実は) 」のアレンジです。曲の最後は、「喜び」や歓喜を象徴する、ベートーヴェン作曲の交響曲第9番第4楽章の主題旋律「歓喜の歌」へとつながっています。
音楽を聴きながら、自分は結果が見えない時に何を信頼しているのか、そして、なぜ種を蒔き続けるのかを思い巡らしてみませんか?
そして、その思いを自分の言葉で、神様に祈ってみませんか?
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読んでくださってありがとうございます。God bless you!




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