努力という泉が枯れた時に

更新日:9月28日

Wells of Salvation
Artwork inspired by Isaiah 12:3
Keiko Yamada
Acrylic Painting on Canvas
36 x 24 inch
今日の作品では、二つのものが対照的に描かれています。
下には、力強い黄金色の水が幻想的な森林の中を流れ、今にもこちらへ向かってくるかのような場面が描かれています。一方、上には、乾いた紺色のカケラが渦を巻くように描かれています。
🌿🌿
この作品は、聖書のイザヤ書12章3節から着想を得ました。
あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から。
イザヤ書12章3節
それゆえに、この作品のタイトルは、「Wells of Salvation(救いの泉)」。
🌿🌿
「救い」という言葉だけを聞くと、少し宗教的で、どちらかというと堅苦しい、あるいはネガティブな印象を持つ人もいるかもしれません。
しかし、私たちは誰でも、一度くらい「ここから救われたい」、または「抜け出したい」「解放されたい」「逃れたい」と思ったことがあるのではないでしょうか。
私はあります。
特に自分の無力さを感じさせるものに直面した時に、極端にその状況や場所から逃れたいと思わされます。
英語を学び始めている時に、なかなか結果を出せず、それが長引くほど勉強そのものから逃げたいと思ったこと。
苦しんでいる友人を助けることができない自分の無力さに歯痒さを感じた時。
日本では列になって電車を待つのが当たり前なのに、それが当たり前ではない国で人に身も心も押しつぶされそうになりながら通勤する時。
頑張りでなんとか乗り越えることができればいいのですが、本当に辛いのは、「努力という泉」が尽きてしまった時です。
そこからもう一度水を汲もうとしても、泉は残酷なほどに乾ききっている。そんな時には、友人からの「頑張れ」という言葉さえも、すでに限界まで頑張っている自分を、さらに追い込んでしまうことがあります。
そんな経験をする中で、私はあることに気がつきました。
私たちが自分で描く人生の設計図
私たちは、無意識のうちに「自分が正しい設計図を持ち、それを実現しなければ幸せになれない」というプレッシャーを背負っているのではないでしょうか。
例えば、
「良い大学に入って、良い仕事に就くことができたら、きっと幸せになれる」
「過去に犯した過ちを隠し続けさえすれば、ここに自分の居場所がある」
「神の計画を正しく見極め、それを自分の力で実現しなければならない」
そんな、それぞれの「人生の設計図」です。
🌿🌿
もちろん、自分が描いた設計図を見事に実現できる人もいるでしょう。
しかし、現実には、思い通りに物事が進まず、その設計図が砕かれてしまうこともあります。
あるいは、苦労の末にようやく設計図通りの人生を手に入れたはずなのに、「思っていたほど幸せではない」と戸惑うこともあるかもしれません。
その様子を表現したのが、空中に渦巻く乾いた紺色のカケラです。

この作品では、意図的にペルジアンブルー(Prussian Blue)という色を使っています。

プルシアンブルーは、19世紀に図面などを複製する技法「サイアノタイプ(cyanotype)」のために使われた顔料で、後に建築家や技術者たちが設計図を複製するために広く使われるようになりました。そして、こうした青い設計図そのものが「blueprint」と呼ばれるようになったのです。
だからこそ、このペルジアンブルーのカケラは、人が正しいと思って描いた設計図が砕かれた姿を表しています。仕事でも、子育てでも、勉強でも、自分は正しいと信じていた設計図が砕かれた時、私たちは大きな絶望を感じることがあります。
そして、その絶望の中で、「努力という泉」さえも尽きてしまったらーー。
その時、私たちは何を頼りにすればいいのでしょうか。
もう一つの設計図
そんなことを考えている時、携帯電話を充電するために、当たり前のように電源コンセントを探しながら、ふと思いました。
「人間にとっての『電源コンセント』は何なのだろう?」と。
「自分で設計図を描き、それを完成させる」のではなく、自分より大きな存在が、答えを持っているのではないだろうか。
そんな問いが、私の中に生まれました。

🌿🌿
私がその答えを知るきっかけになったのが、聖書でした。
「聖書!?」と、少し抵抗を感じる方もいるかもしれません。
でも、ここからは少しだけ、私自身の体験を通してお話しさせてください。
聖書には、人間の美しい部分だけではなく、人間同士の嫉妬、憎しみ、奪い合い、争い、偽り、自己中心性といった、私たちのドロドロした部分も美化されることなく描かれています。
愛するべきだと思っているのに、逆に憎んでしまう。
自分で責任を取るべきだとわかっていても、誰かに責任を押し付けてしまう。
誰かの成功を心から喜びたいのに、「私の方が努力していたのに」と嫉妬してしまう。
私自身も、こうした人間の矛盾を感じてきました。
そして、聖書を読んでいく中で気づかされたのは、聖書が人間の「汚れ」を指摘するだけではなく、そんな私たちのために神が用意された「救いの泉」も指し示しているということでした。
隠れたメッセージ
「救いの泉」を象徴するある形が、この作品《Wells of Salvation》の中に隠されています。
それは、作品の後ろから光を当てることで初めて現れます。
これは、作品の後ろから太陽の光を当てた様子です。
何かの形が浮かび上がっているのが見えるでしょうか。

十字架です。
こうして見ると、空中に渦巻く乾いたペルジアンブルーのカケラが、十字架を指し示しているように見えるのではないでしょうか。
十字架は、人間の汚れと、そこから生じた神との断絶を表しています。
聖書によると、私たちは本来、私たちを創造し、尽きることのない命と喜びを与えることのできる神とつながって生きるように、デザインされた存在です。
しかし、最初の人間であるアダムとイブが、神から離れて自分の思い通りの道を行くという選択をしたことによって、人間はその「尽きることのない命の泉」から自らを切り離してしまいました。
その結果、私たちは神との関係が断たれた状態で生きるようになりました。
自分の矛盾や「汚れ」に直面する時、自分の作り出した設計図が打ち砕かれた時に、戻れる泉は自分の努力という泉だけになってしまったのです。
しかし、十字架には、もう一つ意味があります。
そこに、私たちにとっての希望があります。
神の設計図
十字架は、イエスの時代に突然登場したアイデアではありません。
聖書全体を貫いている神の救いの計画の中心にあるものです。
聖書は、イエスが来られる前に書かれた「旧約」とイエスが来られた時代とその後に書かれた「新約」に分けることができます。旧約には、神が救い主(キリスト)を送るという約束や預言が、繰り返し記されています。
その一つが、イザヤ書53章です。
今回の作品の着想を得た聖書箇所イザヤ書12章3節と同じ書物の中に、キリストが実際に来られる何百年も前に、救い主が苦しみを受ける姿が預言されているのです。
そして、旧約にはそのほかにも、後にイエス・キリストによって成就したとされる多くの預言があります。
まるで、ずっと前から一つの「設計図」が描かれていたかのようです。
では、なぜ救い主は十字架にかからなければならなかったのでしょうか。
聖書が語るのは、人間の努力だけでは埋めることのできない、神との関係の亀裂です。
人間の背きや汚れによって生じたその隔たりを埋めるために、神は私たちが支払うべき代価を、十字架でご自身が負ってくださったのです。
そこには、人間には理解しきれないほどの大きな愛と、罪をそのままにはしない神の完全な義の両方が現れています。
人の目には、十字架上で死ぬことは、弱さや敗北のように見えたかもしれません。
しかし聖書は、それこそが神の救いの計画の中心だったと語ります。
そして、十字架で死なれたイエス・キリストは、三日目に復活しました。
キリストの復活は、死さえ超える神の力を現しています。
そして、その復活によって開かれた救いの道は、今も尽きることのない「救いの泉」のように、私たちに希望を与え続けています。
🌿🌿
ここで、最初の問いに戻ってみたいと思います。
「私は、何を源として頑張っているのだろうか」
人間が自分の設計図を完成させようとして力を尽くす一方で、聖書には、神ご自身が私たちを救うための設計図を持ち、それを実行してくださった物語が描かれています。
だからこそ、本当の意味で幸せになるために、そして人間らしく生きるために必要な問いは、
「頑張るか、頑張らないか」
ではなく、
「私は、何を源として頑張っているのだろうか」
ということなのかもしれません。
自分の「頑張り」や「努力」という泉だけに頼るのではなく、神の泉から汲む。
そこから新しい力を受け取り、もう一度歩き出す。
聖書は、そこに私たちが本来の人間らしさを取り戻していく道があると教えています。
救いの泉から汲む招待
イエスキリストが地上に来られた時、こんな言葉を語りました。
「誰でも乾いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
ヨハネの福音書7章37節前半〜38節
イエス・キリストが十字架にかかり、死なれたことは、人の目には弱く見えたかもしれません。
しかしそれは、私たちが再び神のもとに戻ることができるように、神ご自身が用意された救いの道でした。
「私は、何を源として頑張っているのだろうか」
この問いと共に、音楽を一緒にお届けします。
As a Deer という讃美歌のアレンジです。
「鹿のように」、水に飢え、乾く鹿が、水を思いっきり飲んで満たされる姿を思い浮かべながらアレンジしています。
私自身、この曲を、燃え尽き症候群になった時期にアレンジしました。
当時の私は「神や人に認めてもらうために努力する」という状態でした。
しかし、その時に学ばされたのは、私たちが自分の力で泉を掘り続けることよりも、イエス・キリストによって与えられている、愛あふれる泉かあら汲むことが大切だということでした。
今日も、私たち一人ひとりの飢え渇きを知っておられ、それを満たすことができる神様の祝福が皆さんのもとにも届きますように。
(この音楽は、Spotifyなどの各種音楽配信サービスでもお聴きいただけます。)
🌱🌱🌱
読んでくださってありがとうございます。God bless you!



コメント