喜びを身籠る悲しみ
- Keiko Yamada
- 5月19日
- 読了時間: 7分
更新日:5月19日

pregnant with joy
(11th painting of Pursuing Love Series)
Artwork inspired by John 16:20
Keiko Yamada
Acrylic Painting on Canvas
20 x 20 inch
この絵には透き通るような青緑色を背景に鮮やかに開花する花が描かれています。これ以上明るい色はないだろうと思えるほどに思いっきり明るい色を使っています。でも、この絵は「悲しみ」と結びついていると言ったらやや意外かもしれません。
結婚した今、愛する旦那がそばにいることでこれは過去の笑い話になりましたが、数年前片思いが実らなかった悲しみのゆえにキャンバスを真っ黒に塗りつぶしたことがあります。当時の私にとっての悲しみの色は深い黒以外にはあり得ませんでした。
このブログを読みながら、まさに私の今の状況は黒よ、くろ!と思っておられる方もいるかもしれません。
この絵が悲しみについてならば、どうして悲しみとは相反する鮮やかな色が使われているのか。その理由は、この言葉から着想を得た作品だからです。
あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
悲しみが喜びに変わる!?これはよっぽどの楽観主義者、または人生の悲しみを何も味わってこなかった人の言葉に聞こえるかもしれません。深い悲しみの中にいる人ほど、この言葉は慰めから程遠く、まるで自分の悲しみが否定されたような感じがするかもしれません。
しかし、それは誰が言ったのかを知ることによって意外と説得力のあるものだとわかります。
これはイエス・キリストが弟子たちに語った言葉です。
あなたたちの元を去らなければならない、とイエスキリストから聞き、ショックと悲しみの只中にいる弟子たちに対して語られた言葉です。彼らを責めたり、冷たく扱ったりすることなく、彼らの悲しみを受け止め、励まされたことが聖書に綴られています。
実はそのような言葉を弟子たちに語ったイエスキリストご自身も耐え難い悲しみを抱えていたことがわかります。
イエスキリストの悲しみ
十字架にかかる一晩前にイエスキリストが弟子に対してこう言われました。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。
ここを、離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
マタイの福音書 26章38、39節
同じ現場がルカの福音書22章にも描写されていますが、そこでは、イエスキリストの汗が血の雫のように地に落ちたと書いてあります。この血汗症の現象から、これから通らなければいけない十字架での苦しみに対してとてつもないストレスや恐れを感じておられました。
ご自身が感じておられた悲しみにもかかわらず、弟子たちに対しては、「あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わる」と約束されます。
のちにイエスキリストは本当に弟子たちの元を去ることになります。
それも、弟子たちが思っていた以上に過酷な形ででした。
罪に値することは何もしていなかったにも関わらず、妬みのゆえに捉えられ、しかも十字架につけられてしまったのです。弟子たちはとてつもない混乱と悲しみの中を通ることになります。では、なぜイエスキリストは、あなた方の悲しみは喜びに変わるなど言われたのでしょうか。悲しみは時間とともに癒されたとしても、それが喜びに変わるなんてあり得るのでしょうか。
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Pregnant with Joy
この絵のタイトルは「Pregnant with Joy」、日本語に訳すと喜びを宿して、とか喜びを身ごもってという感じです。
悲しみが喜びに変わることを説明するために、イエスキリストは母親が子供を産む苦しみを用いています。
女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。
しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、
もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。
そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。
そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
ヨハネの福音書16章21、22節
イエスキリストは、確信を持ってこの言葉をいうことができたのは、弟子たちがまだ知らなかったあることを知っていたからです。
十字架で死んだ後に必ず自分は復活する、ということです。
死んだ後に復活?そんなことあり得ない、と思っても決して不自然ではありません。これは日常茶飯事ではないからです。人にとって死も悲しみも避けられない世界に住んでいるからです。
でも実際に、弟子たちやその他何百人という人々がイエスキリストの復活した姿を見て、悲しみに強烈に打ち勝った喜びを体験したのです。イエスキリストの言葉がただの空虚な慰めの言葉ではなかったことを体験したのです。そして、どんな迫害があってもそれを伝えるものへと変えられ、今でも復活という歴史的事実は述べ伝えられているのです。それこそ、彼らの悲しみが本当に喜びへと開花した証拠です。

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不必要な十字架での悲しみ?
最後に是非皆さんに考えていただきたいことは、なぜイエスキリストは十字架での苦痛をあえて通られることを選 だのか、ということです。そこまでの悲しみや葛藤を感じたならば、やめればよかったじゃないか、と思うかもしれません。
でもそれは私たちが、全ての喜びの根源である、私たちを創造された神との関係を修復するためです。
絵が偶然に現れたのではなく、誰がどこかで描いたと私たちが信じて疑わないように、私たち人間も決して偶然に現れた存在ではありません。この世全てを創造した神によって愛を持って造られたと、いまだにミリオンセラーである聖書に書いてあります。
しかし、私たち誰もが、そんな神などいらないと言って、その命と喜びの源から自分自身を断絶してしまいました。その私たちの姿は土地から切り取られてしまった花のようなものであり、いつかは枯れてしまいます。
イエスキリストが十字架の悲しみを通ってでも完成させたかった道とは、そのように神に背を向けた反抗の代価、人間にはどんな良い行いでもお金でも支払いきれない代価を代わりに支払うためでした。そのイエスキリストと私たちのために成し遂げてくださったと自分自身確信する時に、私たちの喜びの源である神との関係が修復されるという道を作ってくださったのです。誰にも奪われることのない喜びを自分のものにしていくことができる道を示してくださったのです。
イエスキリストが神だと信じていても、信じていなくても、この世に生きる限り悲しみは避けられません。生かされている間、悲しみの経験を知恵を得るためや人間性を磨ぐものとして受け入れることもできます。しかし、最終的には全ての悲しみは喜びに変えられるという確信は、揺らぐことのない希望です。 今日も私たち一人一人に向かって差し伸べてくださるイエス・キリストの手からその希望を受け取ってみませんか。
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🌸 祈りのディスカッション・自己振り返りの提案
1 私たちを創造した神が本当にいるならば、その神との関係がキリストによって修復される中でどのような喜びが人生に開花すると思いますか。
2 キリストによって与えられている喜びを身ごもりつつも、悲しみの只中にいるとしたら、今の皆さんは何を必要としていますか。その必要が満たされるために、今日どのように祈ることができますか。
🙏 祈りの提案
愛する神様、私たちは決して偶然に生まれた存在ではなく、あなたとの関係の中で喜びを最大限に経験するために創造された存在であることをありがとうございます。状況によって変化することのないこの喜びをますますと自分のものにしていくことができるように助けてください。
主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
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読んでくださってありがとうございます。God bless you!


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