「こうあっていいはずがない」という葛藤に語りかけるあわれみ
- Keiko Yamada
- 6月24日
- 読了時間: 8分

mercy
(12th painting of Love Series)
Artwork inspired by Psalm 86:15
Keiko Yamada
Acrylic Painting on Canvas
36 x 12 each of 3 paintings
こちら側の言い分を全く聞き入れてもらえず、信じてもらえない時ほどもどかしいことはないのではないでしょうか。
そんな時このようなことを言われたらどうでしょうか。
聖書に綴られているイエスキリストの言葉です。
しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。
あなたの敵を愛しなさい。
あなたを憎む者に善を行いなさい。
あなたをのろう者を祝福しなさい。
あなたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。
上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。
すべて求める者には与えなさい。
奪い取る者からは取り戻してはいけません。
自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。
ルカの福音書6章27ー31節
この世に存在するすべての人がこのように行動できたら、それこそ素晴らしい世の中になるかもしれません。しかし、これはあまりにも非現実です。悪が蔓延るこの世の中で、「こんなやり方で不正が正されるはずがない」と思う方がほとんどではないでしょうか。私もそう思っていました。
自分を憎む人を無視し、呪う者を呪い返し、侮辱する者に対してこちらもそれなりに侮辱する――という対応の仕方が一番スカッとして、悪に対する正当な対応じゃないかと思うかもしれません。
しかも、悪いことをしたから憎まれるのではなく、誰かに真実を伝えたことで憎まれることさえもあります。
私も、ある人が明らかに周りに害をもたらす過ちを犯していたとき、その人が抱えている困難や事情にも、できる限り配慮しながら指摘したことがあります。ところが、その人は非を認めず、その人に同意しなかった私を憎み、しまいには呪ったり侮辱してきたりというやむを得ない状況もありました。この人の助けになれればと思って行動したとしても、もちろん相手はその助けを拒む権利はあります。しかし、その善意を逆手にとって、こちらを傷つけようとする人もいるという現実を思い知らされました。この状態が長引くほど、正直、イエスキリストが言われた言葉の正反対の行動をして相手を思い知らせたい誘惑に幾度となく駆られました。
こんな時こそこのイエスキリストの言葉は非現実的な要求に聞こえます。そんなことを言うのではなく、聖書が語る通りにあなたが愛であり義であられるならば、あなたが今すぐ、この不正を正してください!と言いたくなります。
「こうであっていいはずがない」という葛藤
周りの人々の人生においても似たような経験を見て思うことがあります。
どんなに善良な人であっても、不当な扱いを受けずに生きることは難しい世の中だということです。しかし、ほとんどの人が「こうあっていいはずがない」と葛藤するのはなぜでしょうか。この世がもともと悪に満ちた世界であるならば、なぜ私たちは心の奥底で「こうあっていいはずがない」と私たちは言葉にできない思いで叫ぶのでしょうか。
それは、この世界がもともとこの世界は悪に満ちた世界ではなかったからです。
私たちは、もともと悪に満ちていなかった世界の記憶を魂の奥底に持っているからこそ、悪と直面した時に、所詮この世界はこんなもの、と納得するのではなく、「こうあっていいはずがない」と葛藤するのではないでしょうか。
歴史的に古い書物の一つでありながら、今もなお毎年ミリオンセラーとなっている聖書はこのように始まります。
はじめに神が天と地を創造された
創世記1章1節
読み続けると、神が創造されたすべては「良かった」と書いてあり、悪や不正は存在していなかったことがわかります。
しかし、すべてが良くなくなってしまった理由は、人間が「自分を創造した神から離れて自分中心に生きようとすること」を選んでしまったからと書いてあります。
自分中心に生きようとする人間にとって、神ほど不都合な存在はいません。だからこそ、「なぜ私の思い通りに物事を進めてくれない」と神を憎み、「あなたがいると都合が悪い」と神を呪い、「あなたなんて知らない」と神を侮辱し、「あなたはいらない。でもご利益だけはください」と言えてしまうのが、私たち人間なのです。
そんな私たちを「せっかく創造して、命を与えたのに私を無視するとは何事だ!」とでも言って、怒りで滅ぼすこともできたはずです。そんな私たちが神を侮辱するたびに罰を与えることも可能なはずです。
しかし
私たちが神を憎んでいる時さえ、神は私たちに善を行い、
私たちが神をのろう時さえ、神は私たちを祝福し、
私たちが神を侮辱する時さえ、私たちのために祈り、
私たちが神の頬を打つような時でさえ、ほかの頬をも向けてくださり、
私たちが神の上着を奪い取る時、下着をも拒まず、
私たちが神から奪い取る時も、私たちから取り戻さず、
私たちが求める時、絶えず与えてくださったのです。
これこそ、イエス様が私たちの神に対する背きの代価を支払うために十字架の道を歩まれた姿そのものです。
一度も罪を犯さなかったにも関わらず、十字架での死刑に追いやられるほどに憎まれ、呪われました。十字架にかけられた時も、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言って嘲られ、叩かれ、着ているものを剥ぎ取られました。同時に十字架につけられた強盗の一人が自分の犯した罪を認めあわれみを求めた時、イエス・キリストは惜しみなく救いの約束を与えられました。それは決して弱さではなく、人が到底支払うことのできない罪の代価を代わりに支払ったキリストの愛の強さです。それは、まさに自分の過ちや汚れのためであったと信じた者だけが受け取ることのできる神のあわれみです。

この絵と繋がりのあるメッセージ
今日の絵のタイトルはまさに神のあわれみ、「MERCY」です。
神があわれみ深いお方であるということが述べられている詩篇86篇15節から着想を得て描きました。
しかし主よ あなたはあわれみ深く 情け深い神。
怒るのに遅く 恵みとまことに富んでおられます。
詩篇86篇15節
3枚のキャンバスそれぞれに木が描かれ、それぞれに三位一体の神のあわれみが注がれている様子が描かれています。

一番左の絵は、悪を完全に滅ぼす前に裁きを遅らせ、一人でも多くの人が神のあわれみへと立ち返ることを願って、私たちに手を差し伸べておられる御父の姿

中心の絵は、ルカの福音書6章27ー31節を十字架によって体現し、私たちの過ちと汚れの代価を御自身の血を流してまで支払われた御子キリストの姿

そして一番右の絵は神のあわれみの豊かさと、それが私たちの日常に注がれる力と自由を今も明らかにしようと働かれる聖霊の姿
あわれみによって人が変えられる
このような「あわれみによって人が変えられる」という姿を描いた有名な物語があります。レ・ミゼラブルという映画にもなっていますが、ジャン・バルジャンは宿泊先として迎え入れてくれたミリエル司教の銀食器を盗んで逃げます。しかし、警察に捕まって司教の元へ連れ戻された際、司教は「それは私が彼に与えたものです」と言い、さらに銀の燭台まで持たせて送り出します。彼から奪うものから取り戻さず、与えたのです。一般的にはあり得ない司教の赦しとあわれみがジャンの人生を大きく変えます。
これは推測ですが、ミリエル司教は、神からものを奪おうとした自分の姿をジャンの中に見出したのではないでしょうか。そんな時でさえ自分に注がれていたあわれみに気がつき、そのあわれみに変えられたからこそ、復讐を自分の手で成し遂げようという思いの支配下で動くことなく、ルカの福音書6章27ー31節を実践することができたのではないでしょうか。
神のあわれみは確かに私たち一人ひとりに注がれていますが、私たち自身がその必要を感じ、受け取とると決断しない限り自分のものにはなりません。あわれみとは必要としないものに無理やり押し付けられることはできないものだからです。
憎しみと怒りを手放し、代わりに神のあわれみを、その手を開いて受け取ってその豊かさ、代価、尊さを知り続ける幸せに預かってみませんか。もちろんこれは一度だけでスッキリ終わるものではありません。この世にいる限り不当な扱いをうけ、時には自分が不意に誰かを不当に扱ってしまう時があるかもしれません。その度に憎しみに心を吸い取られるのではなく、最終的にはあらゆる真実を明らかにし、不正を正してくださる神のあわれみに信頼してみませんか。
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🌸 祈りのディスカッション・自己振り返りの提案
1 復讐したいという思いを、全てを知っておられる神に告白し、そのすべを神に委ね、神への信頼と置き換えることによって、どのような自由を得られると思いますか
2 「こうであっていいはずがない」という葛藤は何をさし示していると思いますか
🙏 祈りの提案
神様、あなたが憐れみ深いお方だからこそ、私たちは正直な思いをいつでも、どこでも打ち明けることができることを感謝します。愛と同時に義であられるあなたに全てを委ねます。憎むことで憎しみへと形作られるのではなく、いかなる時もあなたのあわれみの尊さを見出すことによってあわれみを私の心と考えに刻み込んでください。
主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
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読んでくださってありがとうございます。God bless you!


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